「は……?」
アレクは、目の前の光景が信じられなかった。
彼の目の前にいるのは、長い黒髪の、純白の修道服を纏った少女だ。
その両手には、赤黒い血に染まった短剣が握られている。
ほかに周りに生きている人間の気配などない。
下手人は明らかだった。
……なぜ。
どうして。
どうやって。
様々な疑問が脳裏に浮かんでは消えていく。
そのはずなのに、アレクの口から出たのはこんな言葉だった。
「……そんな服、どこで手に入れたんだ?」
「村長さんにもらったんですよ! かわいいでしょう?」
お気に入りの服を見せびらかすように、少女はくるくるとその場で回ってみせる。
黒い髪は珍しいが、その姿はただの村娘とそう変わりない。
その手に握る血塗られた短剣だけが、彼女の印象を異様なものにしていた。
「君は……」
アレクの記憶が正しければ、直前に立ち寄った村で食糧庫に忍び込み、中のものを食べ散らかして寝ていたところを捕縛されていた少女のはずだ。
修道服と短剣のせいで随分と印象は変わって見えるが、間違いない。
「大丈夫ですか? 大きな怪我はないみたいですけど」
「ああ、大丈夫だ」
蹴られた腹や背中が痛むが、それをわざわざこの少女に伝える気にはなれなかった。
ただ者ではない気配を感じさせる少女は、今のところアレクに危害を加える様子はない。
それどころか、
「……君は、僕を助けてくれたのか?」
「そうですね。あなたを助けに参りました」
「……どうして?」
ただの村娘というわけでもなさそうだが、だからこそアレクを助ける理由などないはずだ。
大男の言葉を使うのは癪だが、アレクを救うよりもアレクを殺してその首を献上する方がはるかに安全で、リターンも大きいのだから。
「あなたを救うことで、たくさんの人たちが救われるからです」
「……なんだよ、それ」
その答えは、アレクが予想だにしていないものだった。
私欲ではなく、民のために、自らの力を使う。
その結果、どれほど強大なものを敵に回すかも厭わず。
そんな風に考えて、それを実行できる種類の人間など、アレクは一つしか知らない。
「わたし、聖女なので」
「……なるほど。聖女か」
堂々と「わたし聖女です」などと名乗る馬鹿が、いったいどこの世界にいるというのか。
自称聖女などという怪しい存在は、今まで聞いたことも見たこともない。
そんな者の力を借りるなど、もってのほかだろう。
だが。
「……頼む。力を貸してくれ」
アレクは地べたに這いつくばりながら、彼女に頭を下げた。
そんな彼の姿を、ベルは静かに見つめている。
「ランデアが『解放軍』の手に落ちれば、民にとっては地獄のような生活が待っているだろう。いや、もうすでに始まっているんだ……」
アレクがこれまで見てきた村の人々は、皆暗い顔をしていた。
希望などないと、すべてを諦めた人間の顔だった。
「これまで死んでいった者たちのためにも、これからこの国を生きていかなければならない者たちのためにも、僕はここで死ぬわけにはいかない……!」
それがアレクの本心だった。
それが今、アレクが生きている意味だった。
「頼む。君の力が必要なんだ……」
……そうしてアレクが頭を下げ始めて、どれほどの時間が経っただろうか。
ふと、アレクは誰かに抱きしめられている感触があることに気づいた。
顔をあげると、聖女を名乗る少女がアレクの身体を抱きしめていた。
その手はどこまでも優しく、まるで赤ん坊を抱く母親のようで。
「わかりました。わたしが必ず皆さんを幸せにします。だから安心してください」
「……そう、か」
それはアレクの求めていた答えとは微妙に違ったが、なんとなく大丈夫だと思った。
そのまま、アレクは意識を手放した。
意識が途切れる直前、澄んだ鈴の音が聞こえたような気がした。
◆
アレクが走り去った後、近衛兵たちはできる限りの時間を稼ぐことに全力を注いだ。
自分たちが時間を稼げば稼ぐほど、彼が生き延びられる可能性も高くなるからだ。
それはつまり、彼らが最期の瞬間までアレクのために時間を稼いだということで。
「ちっ。意外とかかったな……」
大男が最後の一人を切り伏せると、アレクの姿はどこにもなかった。
彼らの時間稼ぎは成功し、王子にはまんまと逃げられたということだ。
兵を何人か向かわせたので、そのうち首を刈り取って戻ってくるだろうが、それでは面白くない。
自分の国が征服された王族の話など、そうそう聞けるものではない。
殺す前に、今の心境について聞いてみたいという思いがあった。
もうすでに手遅れかもしれないが。
「ん?」
なにやら遠くのほうが騒がしい。
それは部下の男たちを待機させていた、村の入り口あたりから聞こえてきていた。
大男にとっては赤子の手をひねるようなものだったが、こちらの犠牲も多少はあったので、男たちも気が立っているのだろう。
そういうときのために、村の女は生かして残してある。
そう思い、声をかけに行こうと立ち上がると、
「ご、ご報告します!」
「なんだ。騒々しい」
部下の男の一人が、血相を変えて大男のところへと走ってきた。
大男から見ても、尋常な様子ではない。
「現在、村への侵入者と隊の兵士たちが交戦しています! しかしそれがただ者ではなく、こちらの兵士たちが一方的に殺されている状況です!」
「……ああ? なんだそりゃ。ランデアの坊主の伏兵か?」
「詳細は不明ですが、『解放軍』に敵対する者であることは間違いないかと……」
部下の報告を聞き、大男は考えを巡らせる。
このタイミングで出てきたということは、アレクの最後の切り札という可能性が高い。
しかし最初から切っておけば、不要な犠牲を産まずに済んだというのに。
大男は彼に仕えていた男たちに同情した。
「で、そいつらは何人だ?」
「そ、それが……」
大男がそう尋ねると、部下は急に言いにくそうな顔になる。
何を困っているのだろうか。
「……ひ、一人です」
「一人? おいおい、お前ら自分たちが何人いると思ってんだ。一人ぐらいてめぇらでなんとかしろ」
自分のことを馬鹿にしているのだろうか。
大男は気分が悪くなった。
だいたい、いくら寄せ集めの『解放軍』とはいえ、それなりの戦闘能力はある。
こちらが数十人もいれば、そうそう遅れを取るとは思えないのだが。
「……まあいい。俺が出よう」
信じられないことだが、ふがいない部下たちに任せておけば、全滅する可能性すらある。
それほどの手練れなら、自分にしかその相手は務まるまい。
そう思い、現場へと向かったのだが、
「おいおい……なんだありゃ」
そこにいたのは、真っ白な修道服を身に纏った少女だった。
この国では珍しい長い黒髪で、血のように赤い眼。
両手に短剣を持ち、自然な様子でキョロキョロと辺りを見回している。
その周囲には、事切れた大男の部下たちが倒れていた。
ほとんどが首を切断されており、苦悶の表情を浮かべた頭部が至る所に転がっている。
それはまさしく虐殺の現場だった。
――ただ者ではない。
大男はそう直感する。
これだけの人数を殺しておきながら、特に変わった様子も見受けられない。
自分が生み出した結果に、あの少女は何の感慨も抱いていない。
その事実に、自分の奥底に眠る原始的な感情が揺れ動かされるのをひそかに感じていた。
「あ! やっと見つけました!」
大男の姿を見つけたベルは、可憐な微笑みを浮かべる。
大男にはそれが、ただの死刑宣告にしか聞こえなかった。
少女が大男に向かって走り出すと同時に、大男もまた巨大な斧を持って走り出す。
部下たちがどうやってやられたのかはよくわからないが、自分の斧で切れないものはないという自負があった。
まして相手は小娘一匹。
多少はやるようだが、大男の敵ではない。
だが、
「速いッ……!」
大男の斬撃は、あっけなく少女の身体を逃がした。
予想していたよりも、速い。
「ぎゃぁぁあぁあっ!!」
少女の刃が、大男の近くにいた兵士の身体を切り裂く。
おびただしい量の血が吹き出し、男は白目を向いて崩れ落ちた。
おそらく致命傷だ。
少女はそのまま、大男のほうへと目を向けた。
「――ッ!!」
少女の短剣の一振り。
その一撃を、なんとか斧の柄の部分で受け止める。
しかし、重い。
こんな華奢な少女の身体のどこにこんな力があるというのか。
「くっ……!」
その体勢では、少女のもう一本の短剣を受け止めることができない。
少女の放った斬撃が、大男の首を掠めた。
「ぐうっ……!」
首に赤い線が入るが、何とか体制を立て直す。
長年の経験で培われたギリギリの回避行動が、大男の命を薄皮一枚でつないでいた。
「クソがッ!! 舐めるなぁ!!」
大男が怒涛の攻めを見せるが、少女はそれらの攻撃すべてを軽々と避ける。
それは何かの悪い冗談のような光景だった。
大男の攻撃の隙をついて少女の繰り出す斬撃を、大男はギリギリのところで避け続けている。
一方で、大男の斬撃は少女には全く当たる様子がない。
当たったと思ったら当たっていないのだ。
(完全に見切られている……)
そうとしか思えなかった。
このままでは、先にやられるのは自分のほうだ。
大男はそう判断した。
一瞬の隙を突いて少女から距離を取る。
取れると思ったのだ。
「なっ!?」
そんなものはなかった。
少女の流れるような攻撃に、隙など一切なかった。
短剣を防ぐ斧の下を、銀色の残像が流れていく。
回避行動が遅れた大男に、それを防ぐ術はなかった。
「がはっ……」
左胸に、今まで感じたことのないほど強烈な熱を感じた。
否、それは熱などではなく、少女が突き刺した短剣による痛みだ。
許容量を超えた痛みを、脳が熱と錯覚しているだけのこと。
少女がそれを引き抜くと同時に、大男の身体が崩れ落ちる。
仰向けに倒れた大男は、かすむ視界の中で、少女の姿をとらえる。
そこでようやく違和感に気づいた。
彼女の修道服は、澄んだ白色を保っている。
それはつまり、大男はもちろん、『解放軍』兵士たちの誰一人の返り血も浴びていないということだ。
「……ふ」
それは信じられないものを見て、思わず心の奥底から漏れ出た笑いだった。
だからだろうか。
「どうして笑っているんですか?」
不思議そうな声色で、少女が大男に尋ねる。
「最後の、最後で……真の強者と、渡り合うことが……できた、からな……」
自分がロクな死に方をしないというのは覚悟していたことだ。
それが無名の人間ではなく、間違いなく歴史に名を刻むであろう強者に引導を渡されたのは、彼にとって僥倖だった。
「力がないと、みんなを幸せにできませんからね。聖女の必須スキルですよ」
「……そう、か」
少女が何を言っているのかはよくわからなかったが、彼にとってはどうでもよかった。
血を流しすぎて、もうほとんど身体の感覚がない。
しかし、意外と悪い気分ではなかった。
「これを……持っていって、くれないか……?」
大男がわずかに右腕を動かすと、少女も彼の意図を察したようだった。
少女は少し迷ったような様子だったが、やがて口を開いた。
「……それで、あなたは幸せになれますか?」
「……そう、だな。もらってくれるなら、しあわせ、だ……」
「それじゃあ、いただきます」
少女が大男の手を包み込むようにそれを受け取ると、大男は安心したように息を引き取った。
「……」
男の息が完全に止まったのを見届け、少女は男の形見を持ち上げてみる。
相当の重量を誇るはずの巨大な斧は、少女にとっては大した重量ではないようで。
手に持つ感触は、思いのほか少女の手になじむものだった。
「ありがとう。たしかに受け取ったよ、おじさん」
少女の声にこたえるものはいない。
ただ、巨大な銀色の斧が、鈍い色の光を放っていた。